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東京高等裁判所 昭和59年(う)722号 判決 1984年11月28日

被告人 木村裕隆

昭三三・六・二二生 会社員

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金一〇万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、検察官小林庄市作成名義の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人大内邦彦作成名義の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

一  本件の概要

1  公訴事実

本件公訴事実は、

被告人は、昭和五七年一〇月一五日午後六時一五分ころ、神奈川県平塚市八千代町一六番六号所在のガソリンスタンドで、自己の運転する普通乗用自動車に給油を受けた後、同スタンドに接している国道一号線の向こう側にある自己の勤務先駐車場に向うべく、業務として右自動車を運転して右国道を横断するにあたり、同国道上を進行する車両の有無に注意し、交通の安全を確認した後、横断を開始すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然右方を見たのみで、交通の安全を確認しないまま時速約一五キロメートルで横断を開始し、右スタンド前の国道上に進出した過失により、折から右方茅ヶ崎方面から自動二輪車を運転して進行して来た栗原徹(当時一九年)をして衝突の危険を感じさせ急制動の措置をとるの止むなきに至らしめて、同車の走行の安定を失わしめ、同車を路上に転倒・滑走させ、同人をして同車に跨乗した姿勢のままで自車右側面に衝突させ、よつて、同人を同日午後八時ころ、同市明石町二番三〇号所在の熊谷クリニツクにおいて、胸部及び腹部内臓器破裂等により死亡するに至らしめたものである、

というものである。

2  原判決の無罪理由の要旨

原判決は、被告車(被告人運転の普通乗用自動車の略称。以下原判決と同様の略称を用いる。)が本件道路を横断し栗原車と衝突するに至るまでの両車の走行状態及び事故の結果(原判決理由の(一)の(1)ないし(3))、本件道路とその周辺の状況(同(4)、(5))並びに本件事故現場前の平塚菱油株式会社を中心とした本件道路の左右の見通し状況(同(6))につき詳細に認定したうえ、被告人が別図<3>地点で右側の交通状況を確認した時の栗原車の位置関係を衝突地点から約一三一・五〇メートルないし一七四・一二メートル茅ヶ崎方面に寄つた区間内の地点であつたと認め(同(二)の(2))、結論(同(二)の(3))として、(A)「栗原車が本件道路の制限速度である毎時五〇キロメートルの速度で、あるいは右制限速度を多少超過した程度でもつて走行していたと仮定した場合には、その進行する距離から考えて被告車と衝突することは考えられないうえ(前段部分)、本件道路が片側三車線もあり、平坦な直線道路であつて、見通し状況も比較的良好であつたこと等を考慮すれば、被告人が右<3>地点から右方(茅ヶ崎方面)を見た際、別に車が来ていないと判断したこと、つまり、被告車が本件道路を横断しても他の車両の正常な交通を妨害するおそれが無いものと判断したことは相当であつたと認められ、これをもつて被告人に安全確認を充分尽さなかつた不注意があつたということはできない(後段部分)。」と判示し、さらに加えて、(B)「被告車と栗原車との相互の位置関係は右のような状況にあつたのであるから、被告車が右<3>地点から衝突地点<×>に向けて一・六メートル進行した地点で、被告人が再び右側(茅ヶ崎方面)の交通状況を確認しなかつたことをもつて、被告人に安全確認を充分尽さなかつた不注意があつたということもできない。すなわち、道路の横断を開始しようとする自動車の運転者は、他の車両の交通の安全を確認したうえで横断を開始すべき業務上の注意義務を負つてはいるが、あえて交通法規に違反して制限速度の二倍に達するような無謀な高速度で道路を直進してくる車両のあることまでも予想して、他の車両に対する安全を確認し、もつて事故の発生を未然に防止すべき注意義務はない」と判示し、被告人の過失を否定して無罪の言渡をしたものである。

3  控訴趣意の要旨

検察官の所論は、原判決の事実誤認及び法令適用の誤りを主張するものである。このうち、事実誤認の主張を要約すると、原判決の前記(A)の後段部分の判示中本件道路の見通し状況に関する部分は、原判決挙示の実況見分調書を不用意に基礎としたため誤つた認定に陥つているというほかなく、真実は別図<3>地点から茅ヶ崎方面に対する見通しはほとんどきかない状況にあるのであるから、被告人としては見通し可能な地点、すなわち右<3>地点から約一・五メートル前方の歩道縁石付近の地点(所論はこれを<1>地点というので、以下これを所論<1>地点と略称する。)まで前進したうえ交通状況を確認すべきであつた、ただし、仮りに原判決の如く、同方面に対し二〇〇メートルもの見通しがあるのであれば、被告人は別図<3>地点において栗原車に気づかないはずはないし、そうだとすれば、被告人が、栗原車が来ていないものと判断したことが相当であるいわれはなく、原判決はこの意味でも誤つた認定をしている、というものである。次に、法令適用の誤りの主張を要約すると、原判決の前記(B)の判示は、いわゆる信頼の原則を本件に適用したものとみられるが、本件における被告人の横断行為は交通秩序に違反した一種の異常運転行為であること、被告人は少なくとも別図<3>地点から約一・五メートル前進した前記<1>地点から右方を確認しておれば、高速度で進行して来る栗原車を容易に発見し得たはずであること等にかんがみれば本件は右原則の適用基準にそわない場合であるから、原判決は業務上の注意義務に関する刑法二一一条前段の解釈適用を誤つている、というものである。

二  当裁判所の判断

1  そこで所論を一括して審案することとするが、原判決がその理由(二)の(1)ないし(5)(したがつて見通し状況に関する(6)を除く。)、及び(二)の(2)において認定している事実関係は、当審において検察官、弁護人双方に特段争いがなく、記録にあらわれた証拠に照らし十分首肯できるものであるので、以下これに基づいて立論するものとする。

ところで、本件において、被告人は本件道路を横断しようとしたのである以上、その開始前公訴事実指摘の如く右道路における交通の安全を確認すべき注意義務の存することは多言を要しない。しかるに、本件は、本件道路を茅ヶ崎方面から西進してきた栗原車との衝突事故であるから、被告人が別図<3>地点で茅ヶ崎方面、すなわち右側方面を「見た」行為が右注意義務を果たしたことになるかどうかが最大の集点を構成するというべきものであるところ、その判断のためにはまずもつて右<3>地点からの本件道路の見通し状況、より具体的にいえば被告人がその位置で西進してくる栗原車を視認できるかどうか、できるとした場合その程度いかんが確定される必要がある。そして、そのまた先決事項として栗原車が当時ライトを点灯していたか否かを明らかにしておかなければならない。

2  そこでまず、栗原車のライトの点灯の有無について考察すると、同車のライトがハイビームになつていたことは原判決も認定しているのであるが、右ライトが点灯していたか否かについてはいずれとも認定していない。しかし、原審記録によれば、本件事故発生の時間が、当日の午後六時一五分頃であつて、本件道路の北側、南側に軒を連ねていた会社や商店も室内灯を点灯し、約五〇メートルおきに道路両側に設置された水銀灯も点灯状態にあつたこと、栗原車は高速走行していて、点灯しないで走行することは交通上危険であるから、点灯していなかつたとは容易に考え難いこと、同車のライトはハイビームにセツトされていたばかりでなく、ライトのメインスイツチのつまみが欠落していたものの、内部部品の位置から「ON」になつていた事実が認められること、本件事故前同車のライトが点灯されておらず、事故の衝撃によつて偶然何らかの外力が加わり同車のスイツチが破損し、そのためにスイツチがONに入り、しかもハイビームになつたと想定するのもかなり不自然とみられることなどを総合勘案すると、本件事故前栗原車のライトは点灯されていたものと認めるのが相当である。

3  そこで次に、被告人が別図<3>地点において一時停止した際、栗原車を視認し得たか否か等について検討する。しかるに、この点を解明する資料としては、一応原審において取り調べた昭和五七年一〇月一五日付、同月二二日付各実況見分調書があるが、これらはいずれも別図<3>地点を基点とした右側方面の見通し状況をあらわしたものではなく、また当審において取り調べた昭和五八年四月二三日付、同五九年七月一日付、同年九月一二日付各実況見分調書については、その前二者はやや正確を欠き、最後のもの(九・一二見分調書と略称する。)が最も信頼性が高いと考えられる旨当審証人西塚英夫の証言するところであるので、専らこの九・一二見分調書及び右証言に依拠すべきものとする。これによれば、別図<3>地点付近から右側方面(茅ヶ崎方面)に対する見通しは、歩道縁石に沿つて設置された案内標識、電柱、街路樹によつて視界がさえぎられる死角が生じ、原判決のいうような見通し状況が比較的良好であつたとは必ずしも認め難いようである。しかしながら、被告人が別図<3>地点に位置して発進しようとした際、栗原車は原判決も認定するとおり、衝突地点から右方(茅ヶ崎方面)約一三一・五〇メートルないし一七四・一二メートルの路上(おそらく第三車線上)を走行中であつたと認められるところ、この区間は前記九・一二見分調書によると、案内標識柱による死角部分と電柱街路樹等による死角部分との間隙部分に該当し、右<3>地点から見通し得る部分にあると認められるから、その限りにおいて原判決の見通し状況に関する認定について所論のようなとがめ立てをするには及ばないことになる。しかし、そうすると、被告人が別図<3>地点において右側方面を心して「見た」のであれば、栗原車の進行を十分確認し得たものとみざるを得ないのであつて、ことに当審取調べの(証拠略)によれば、栗原車のライトの照射範囲は夜間前方一〇〇メートルの障害物を確認できるために一二五メートルの照射距離を持つているとされているので、被告人としては栗原車が前記区間内のいずれの地点にあつたとしてもその発見ないし動静の把握はより容易であつたはずである。

しかるに、被告人は捜査及び原審公判の各段階において自認しているように、別図<3>地点から右方を「見た」にもかかわらず、栗原車自体及びその照明に全く気づかなかつたと認められるから、被告人は、その際、単に右方を一瞥したにすぎず、右側方向からの交通の安全については十分な確認をしていなかつたものというほかない。してみると、原判決が前記(A)の判示後段部分において、被告人が右<3>地点から右方を見た際、別に車が来ていないと判断したことが相当であつたと認定したことは、その前提において事実誤認をおかした疑いがあると認められる。

4  もつとも、栗原車の当時の位置は被告車から一三〇メートル以上も離れていたのであるから、栗原車がもし本件道路における制限速度である時速五〇キロメートル前後で走行していたならば、時速約一五キロメートルで横断を開始した被告車は、栗原車の進行を妨げることなくその通過前後に中央分離帯を超えていて、原判示(A)前段部分にいうように衝突事故が生じる由もなかつたと考えられ、したがつて前述のような安全確認が十分でなかつたことは本件事故とは無関係であり、本件事故は一にかかつて栗原車が制限速度の約二倍にあたる時速約九八キロメートルないし一〇二キロメートルの高速で直進してきたことに起因するとの意見も生ずる余地のあることを否定できない。しかしながらなお精察すれば、被告人は別図<3>地点において栗原車を視認し得たはずであることは前述のとおりであるが、この場合、その速度の大凡も窺知できたものと認められる。すなわち、(証拠略)によれば、同人ら警察官において本件事故現場付近で本件事故発生時刻頃に符合させたうえ、別図<3>地点付近から、栗原車が走行していたと想定される箇所を観望し、同所を通過する車両についての速度感の調査実験を試みたところ、その速度が時速五〇キロメートル前後の普通域を超え八〇キロメートル以上になると「相当速い」と感じ得るとの結果を得たとのことである。この結果はその採つた方法にかんがみほぼ一般化できると考えて妨げないと思われるので、別図<3>地点において被告人が栗原車を発見していたならば、それが制限速度以上の相当速い速度であつたことを良く認識し得たと断定でき、もしこれを認識したならば被告車の横断行為は栗原車の進行を妨げるばかりでなく、これとの衝突の危険性も高いと思料すべきであつたと考えられるので、被告人としては当然横断を差し控えるのが筋合いであつたといわなければならない。したがつて、被告人は別図<3>地点において右方を「見た」ものの、十分な安全確認を尽くさなかつた注意義務違背があつたことが明らかというべきである。

ところで、このような判断は、本件にいわゆる信頼の原則の適用を認めなかつたが故である。しかるに、原判決は前記(B)の判示において所論の如くこの原則の適用を述べているものとみられるが、前記(A)の判示においても、別図<3>地点から栗原車を視認できるかどうかについては明示を避けたまま、「別に車が来ていないと判断したことは相当だ」としているので、これも(B)の判示と同じ理由づけ、すなわち信頼の原則の適用を根底に置いているやにも推測される。しかし、信頼の原則は検察官所論の如く相手方に特殊行動が予測されるときには適用がないものである。本件において、被告人は栗原車が異常な高速度で走行してくることまで予測する義務はないのであるけれども、横断開始前安全確認を十分尽くしておれば容易に栗原車の特殊行動(制限速度を遙かに超す高速運転)を認識し得たのであるから、かかる場合には、もはや相手方の行動を信頼すべき前提を欠き、みずから危険回避のため適切な措置をとるべき業務上の注意義務があるといわなければならない。もし、原判決がこれと異る見解のもとに、右(A)の判示をしているのであれば、これは業務上の注意義務に関する刑法二一一条前段の解釈適用を誤つたというほかない。

5  以上詳述した如く、被告人は本件道路を横断するにあたり、同路上の交通の安全を確認した後横断を開始すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、別図<3>地点で漫然右方を見たのみで折りから右方の茅ヶ崎方面から直進してきた栗原車に気づかず横断し本件事故を惹起したものであるから、その過失責任は明らかである。(もつとも、被告人の右方確認は唯一右のように別図<3>地点においてなされるべきものとは限られない。同地点は前述の如く必ずしも全般的に見通しが良好とは言い難く、しかも同所では被告人において十分な確認をしなかつたのであるから、たとえば同地点から約一・五メートル前進した所論<1>地点で確認するのがより適切であつたともいえよう。けだし、同地点では右方に向けての遮蔽物は無く見通しが良好であり、別図<3>地点よりも通行車両を近接した関係で視認できるからである。また、仮りに弁護人の論及するように栗原車のライトが点灯されていなかつたとしても、この位置からは同車を十分視認し得たと考えられる。しかし、被告人はこの所論<1>地点でも安全確認をしていないことは証拠上明白である。この点について、原判決は、別図<3>地点で右方確認をしている以上、再び右所論<1>の地点で確認する必要はないと説示しているのであるが、右<3>地点から右方への全般的見通しが良好とは言い難いうえ、被告人の右<3>地点での右方の安全確認が不十分であつたこと上述のとおりであるので、もはや原判決の如く説明することはできない。いずれにせよ、本件では、被告人としては横断開始前、本件道路上の交通状況を見通せる地点で安全確認をなすべき業務上の注意義務があつたのであつて、その地点としては右<3>地点であると所論<1>地点であるとを問わないものと考えて妨げないと思われるところ、被告人は遂にこの義務を果たさなかつたとみざるを得ないものである。)

かくして、原判決が被告人に過失なしと判断したのは、事実を誤認したか、または法令の解釈適用を誤つた違法があり、これは判決に影響を及ぼすことが明らかな場合にあたるといわなければならない。したがつて、論旨は理由がある。

三  破棄自判

よつて、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条に則り直ちに自判すべきものと認め、次のとおり判決する。

1  罪となるべき事実

当裁判所が認定した事実は、前記公訴事実記載のとおり。

2  証拠の標目(略)

3  法令の適用

被告人の判示所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するところ、所定刑中罰金刑を選択し、所定金額の範囲内で、被告人を罰金一〇万円に処し、右罰金を完納することができないときは、刑法一八条により金二五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、原審及び当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文により全部これを被告人の負担とする。

4  量刑の理由

本件は、路外施設から国道上に進出横断しようとした被告人が国道上の交通の安全を十分に確認しなかつた不注意によつて惹起した交通事故の事案であるが、右過失の程度・被害者の死亡という重大結果の発生等の点からすると、被告人の本件刑責は軽いものではないといわなければならないが、一方被害者の高速運転が本件事故の重要な一因となつていると認められること、被害者の遺族との間に示談が成立していることなどの事情も配慮し、被告人に対しては罰金一〇万円に処するのを相当とする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 萩原太郎 小林充 奥田保)

一審判決添付図面<省略>

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